真実の月

試験勉強をしなくてはいけないのに、他の事に手を出してしまう・・・いわゆる現実逃避の現象がおきて麻雀をひさしぶりにやってました。何日もやっていないとやはり微妙に感覚やら度胸やらがなくなっていて、イマイチな結果でしたねぇ・・・まぁ、夏休みに入ったらどうせ試験勉強の反動でこれでもかってほどやるんでしょうがy-~~~
それで何半荘かやったあとで感想戦をしていて、どう考えてもひどい悪手をとっている人間が勝っているのを見るとやるせない気持ちになります。やっぱり運なのかなぁ・・・と思いつつも他人の実力を判断する方法は難しいのです


岡目八目という言葉があります。元々は囲碁の言葉で、対局者よりも観戦者のほうが八目は勝つ、はためで見ているものの方が、当事者より事の良し悪しや得失がわかること・・・というものです
実際、私の趣味の一つである将棋の名人戦が先日終了したわけですが、棋界トップを決める試合の解説を対局者に負けた棋士がしています。なんでこの棋士が・・・?と思った事も何度もあります・・・が、どうでしょう。出てくる解説者は特に問題なく、むしろ適切に解説をしていくわけです。とても不思議です・・・では、なんでこんなことが起きるのでしょうか?


一般に、対局している時の人間の読みの手順というのは

  1. 手の候補を探す
  2. 各候補手について簡単に読む
  3. こうくるだろうと読んだ手を深く読み込む
  4. 3が頓挫すると判断したら他の候補手について深く読み直す
  5. 3,4の繰り返し

です。3番目の手順を直線的に読むと表現することがありますが、これに対局者は一番時間を割きます。候補手は相手と同じ結論に達するだろう・・・なら自分はより深く読まなければならない、という心理が働くためでしょうかね
しかし、観戦者はそんなことをしません。候補手を考えることに時間を使います。対局しているという緊張感がないからです
この両者の見方の違いがあるため、解説が巧くいったり感想戦で対局者が他の手を指摘されると驚いた表情をするわけです。そして、解説者が対局するとなると思考回路が変わり相手の本来の強さを感じるわけです
他のボードゲームでもこれは大体同じことです。強くなるためには客観的な目を持つことが必要だと言われるのはこういうことでしょう。どんなに深く読んでも最善手ではないのなら負けてしまっても仕方がないわけです
コンピューターが人間に将棋で勝てないのはここにも原因があるのでは?と思います。計算がとてつもなく速いコンピューターが出来て、全ての手順を時間内に読まれてしまう時代が来るまでは無理なんじゃないでしょうかね


まぁ、他人を横から見ただけでなめたら痛い目見ますよ?と。有名大学の問題が家で解けたからって、本番で受かるわけじゃないんですわ。緊張感がない状態で受ければだいぶ点数はあがります・・・ものすごい大学に対して失礼ですがね。私は失礼なことやっちまいましたが・・・大学はやる気のある人間だけ来て欲しいですな。我が学友よ、人を使える使えないで判断するのはやめておけ・・・
というわけで、今年は理Ⅲは受けませんと宣言してさようなら