ベーゼンドルファー神奏

イギリスで記憶喪失のピアノ奏者が「ピアノマン」と呼ばれてニュースになっています。その見つかり方などが映画の通りに進んでいるため実際はどうなのか?ということで話題だそうですね。映画の影響による記憶の抑圧など、こう言ってはなんですが興味深いものではあります

以前書いたかもしれませんが、今見ている世界というものは目という器官が存在し、光というものが存在し、心があるから「今、見えている」ような世界が広がるわけです。もちろん見えていないものだって世界を構成しているものではありますがね。記憶の許容量はかなりのものがありまして、私たちが使っている記憶というのはそのほんの一部分に過ぎないそうです。また意識というものも相当量ありまして、自らが暴走しないように無意識の場所へと抑えているそうです


こんな話があります。だいぶ間違ってる可能性あるんでそこらへんはよろしく

とある医者のところに患者が来まして、その患者が記憶喪失で悩んでいました。何度見ても原因がつかめず、患者側も諦めてきたところが見えていました。それでもある日、患者側は医者に元気を出してもらおうと万年筆をプレゼントしました。医者は患者に悪い気持ちをさせないために、この患者と会うときは必ず使っていたそうです
ところがある日、どうしてもこの万年筆が見つからなかった日があり病院にいかないわけにも行かず、仕方なく病院にいくことにしました。患者は万年筆については触れてこなかったので医者も特に問題にしていなかったのですが、その夜・・・その患者は自殺をしたそうです
ショックがあったといわれても仕方ないような状況でしたが、医者も万年筆が見つからないのは自分の責任ではない、と割り切る・・・つもりでした。しかし、この万年筆はいつも置いてあった場所にいつもと変わらずおいてあったそうです
この医者も無意識の場所では患者のことを嫌っていたが普段はでてこない・・・何故かその日心が意識へ出したことにより万年筆が見えなくなってしまった。そのような心からくる世界の変わり方もなにかしらの法則があるのでは?と本気で思ってしまいます


はて・・・何が言いたかったのかよく分からなくなってしまいました。まぁ、精神面の充実は本当に重要だと思っている今日この頃なわけです。精神操作による身体能力アップこそ最凶のドーピングなんじゃないかなぁ。精神の理論化マダー?
こういう話すると眠くなるのでそろそろ終了