もうひとりの私

今日はあまりにも暇だったんで、小学校の頃の友達を引きずり込み呼びました。何をしていたかとかは内緒ですが対人戦で分かったのは、咲夜さんは強いとか⑨は稼ぎ専用とか・・・色々です。ある程度組み込まれた動作しかできないCOM相手とは違って、自分の弱点やら相手の画面を見る大切さとか結構発見がありましたねぇ。客観的に自分の行動を見返すことができてよかったです。まぁ、強烈なネタバレは伏せておいて・・・
客観性の重要さは今まで説いてきました。なんとなく自分の行動を他人事のように見ている自分がいる・・・そんな客観的な目を自分の中に感じることも最近少なくなくなってきました


では実際にその客観的な目とはどんなものなのでしょうか?


客観的な目・・・そもそもこの表現が違和感を生み出す一員になるかもしれませんが、自分の行動を表現するときに「私は、私がこういう事をしたことをこうだと思う」と「私」いう単語を二重に使います。この表現は横光利一の「機械」という作品の冒頭にも用いられているものです。これにより行動媒体としての私(以下①)と、行動を司りつつ監視をするOSのような私(以下②)の二つに区別がされます
行動の中には感情も入ってきます。主観でものを言うときというのは①の私を表現しています。これに対し客観でものを言うときは②の私を表現したものです


つまり、客観的な目を持って行動を見返すということは②を表面に出すと言うことになるわけですが、このとき仮定から『②を表面に出すと言うことを、①に対し②が命令している』わけです。これより私たちが②を全て洗いざらい判断しようというのは不可能になります。なぜならば、②には濃度*1があって『』内の行動を起こさせる②が存在しているわけです。『』内の行動で終わりだと断定させてしまう命令が私の②には存在しているのですから。これはずっと連鎖していってミュンヒハウゼンのトリレンマへつながります


結局・・・心というのは不思議なんですよねぇという事になってしまいました。真理*2ってのは、前書いたような気がしますが無限という概念が出てくる時点でたどり着けないものなのかもしれません・・・。まぁ、人の心理制御くらいならそのうちできてもらわないとねぇ・・・y-~~~


軽く読み返してみて同じようなことしか言ってないようにも見えますが・・・自分の文章作成能力の低さを晒し上げるのも慣れてきたので(ぇ)こんなところで切り上げます。でわでわ

*1:数学的な表現として用います。なんとなくで理解してください

*2:誤字ではないのであしからず